井上弁造という人

井上弁造(1920-2012)

「大正9年、父井上祐一・母きみよの次男として新十津川総富地(そっち)に生まれ、数え年7歳で総富地尋常小学校に入学。16歳で中徳富(なかとっぷ)高等小学校を卒業。その後は家事を手伝う。父は農産物検査員の傍ら小作農を営む。19歳の春に現在地(当時は作り枯らしの荒地)に入植。自分は夏、農業の手伝い、冬は叔母の家のある東京で洋画を学ぶ。戦中、兄と弟が兵役、自分は2ヶ月の教育招集で家を守って終戦を迎える。戦後は出稼ぎや日雇いと忙しく絵を描く時間も少なく70歳で体調を崩す。今88歳、もし一度個展をひらくことが出来たら幸いです」(2009年、当時88歳の弁造さんが自らの略歴を記す)

 

いつまでも完成しない絵を描き続ける。僕が弁造さんを見つめたのは、1998年から2012年までの14年間でしたが、弁造さんという人はいつもそうでした。

ひと部屋しかない小さな丸太小屋のなかでイーゼルに向き合い、女性をモチーフにした“エスキース”ばかりを描き続けました。

南国を思わせる木陰で横たわる裸の女性。自慢の髪をかきあげる女性。何気ないひとときを過ごす母と娘。北海道で畑と森からなる「庭」を作って自給自足の生活を続け、生涯を独身で過ごした弁造さんがなぜこのような縁もゆかりもない女性たちを描き続けたのか。それは僕にとって、“弁造さん”を知るうえで欠かすことができない問いかけでした。

しかし、弁造さんは女性たちを描く理由を語らぬまま、92歳の春にプイと逝ってしまいました。でも、だからなのでしょう。弁造さんが逝ってしまって7年の月日が流れた今日であっても、僕は新たな想像を抱くことを許されます。鮮やかな向日葵色をまとった女性たちのおしゃべりに耳を傾け、弁造さんの胸の内を思い描き、そのたびに新たな弁造さんから“生きること”の奥深さを見つけるのです。

弁造さんがいなくなってしまった丸太小屋にはたくさんのエスキースが遺されていました。その一枚一枚に描かれた筆跡を辿りながら、弁造さんの“生きること”から放たれている光の綾を一緒に感じていただけますように。

※奥山淳志写真集『弁造 Benzo」の制作記録を通じて弁造さんのことを綴っています。

よろしければ奥山淳志の制作日誌をご覧ください。