「弁造さんが逝って6年が過ぎた2018年。僕は弁造さんと過ごした日々の記憶を綴ることに1年近くを費やした。そして、『庭とエスキース』という弁造さんが最も大切にしていたものの二つの名をタイトルにした本をこの春に上梓することになった。この本がようやく本屋に並びはじめた今、僕が計画しているのは、弁造さんのエスキースを携えて日本のあちこちを巡ってみようというものだ。小さな丸太小屋に遺されていたエスキースは、僕のなかで弁造さんの〝生きること〟を問い続けている。この問いを僕ひとりでしまい込むのではなく、もっと多くの人に感じてもらう機会を作ることができればどうなるのだろうか。弁造さんのエスキースを目の前にした人からは何が生まれるだろうと考えるようになったことがこの計画の発端だ。正直言うと、弁造さんの個展を僕がするなんてこれまで考えたこともなかったけれど、きっとこれもまた、弁造さんの〝生きること〟に近づきたいと思い続けた日々の延長線上にあることなのだろう。
そして、あともうひとつ。「弁造さん、いつか一緒に写真と絵の展示会を札幌でやりましょうよ。だからもっと絵を描いてくださいよ」と僕は生前の弁造さんと約束を交わしたことがあった。弁造さんも確かそのときは、「そうじゃなあ、あんたとならやってみるか」とまんざらでもない顔をして笑ったと記憶している。
遅くなってしまったけれど、この約束を守ってたくさんの人に弁造さんの絵を見てもらいますよと、今の僕は弁造さんのエスキースを世に送り出す準備に勤しんでいる。」(Booklet『庭とエスキース』差し込み「もうひとつの庭とエスキース」より)
不思議なことだなあと感じています。20年前に20代半ばだった僕がひょんなことで北海道新十津川の小さな丸太小屋で自給自足生活をしながら絵を描きながら暮らしている弁造さんと出会ったこと。そして、その弁造さんが2012年に逝ってしまうまで、14年間に渡ってカメラを向けさせてもらったこと。さらに、その出会いの日々をまとめた写真集や本を出すことになったこと。
縁というとそれだけなのだけれど、弁造さんとの日々は僕の胸のうちに不思議な塊とでも表現すべき、ずっと握りしめたくなる何かを残してくれています。
このエスキースたちもまたそのひとつなのでしょうか。弁造さんが逝った後の丸太小屋に遺されていたエスキースたちは、不思議な魅力で人という存在のおかしみや奥深さを僕の胸に伝えてくれました。
でも、ずっとここにいるわけにはいかないでしょう。しばらく一緒に暮らしてのんびりしてきたけれど、僕に多くのことを教えてくれたように、今度は世に出て行って様々な出会いを作っていって欲しいと願っています。
エスキースを眺めていると「いつかは個展じなけりゃね、絵描きなんだもの」という弁造さんの甲高い声が聞こえてきます。
弁造さんはいなくなってしまったけれど、僕が代わりを務めさせていただいて弁造さんのエスキースたちを世に送り出したいと思います。